Present

「日常」を「奇跡」に。

「答え」ではなく「応え」を見つけるには?

社会人生活がスタートして、早2ヶ月。

時が経つのは早いもので、街中を早足で歩くとじんわりと汗ばむ季節に。

 

お財布片手に颯爽と会社を後にして、丸の内OL風に美味しいランチを開拓する事が最近の趣味です。

 

ただ、現実は甘くありません。

 オフィスがビジネス街にあることもあり、

揚げ物!白米!うどん!どや!っていう品揃えなので順調に脂肪を装備してきております。

 

 

そんなマヌケなことを言いつつも、

仕事では悔しい思いを幾度と無くしております。日々勉強です。

 

そんな中一つ山場を越えたので、

久々に親指を動かせて頂いております。

 

ここ最近ふと思った事をシェア。

先日、会社の先輩と現場の打ち上げをしていた際に言われた一言が忘れられず。

 

世の中に溢れる、

「本場の正しい○○」という言葉。

 

代表的な事例としては、パスタの食べ方。

イタリアでは、フォークのみで食べるパスタですが、日本ではフォークとスプーンを使って食べる事が良しとされています。

 

アルバイト先がパスタ屋さんだったこともあり、男性が女性に気取ってこの豆知識もどきを言ってた場面を何回見たか。笑

 

その話は置いといて。

 

 

その時私は、ワイングラスの持ち方、について同様の話をしました。

 

というのも、先輩がワイン好きだったから。

 

「ワイン好きなら思う存分語ってもらえそう!」という深掘り出来るであろうネタの一つとして、投げかけました。

 

「ワインのグラスの肢を持つ方法って間違いらしいんです!」

 

「そうらしいね〜。でも間違いではないと思う。正しくもないと思う。

 

 

 

 

「・・・・?」

 

 

 

 

 

私はちんぷんかんぷん。

一瞬どこの哲学者と話してるかと。笑

 

「例えば、ワインを飲む行為の目的として、自分の手を綺麗に見せたい、と思ったとしたら、肢を持つという方法は正解じゃない?」

 

目から鱗のことばでした。

 

人はどうしても、世間一般的にある共通概念を 大前提として「正解」を決めるし、

それが「正解」だと思い込みます。

 それって、数式の様に答えが出ないものに対しても、仮説という形で「正解」だと思い込む。

 

でもふと視点を変えてみると、その正解は、

完全仮想の正解であって。

 

人それぞれ、行為の目的を持って、

それに基づいた行為であれば、

一種の正解になるんだな、と。

 

極論 「正しい」ことって、

そもそも無いんじゃ無いかな、と。

 

その時代、その人達、その空間によって、

正解は違うし、違うものであるべき。

 

正解とは、

正しいことを「答える」のではなく、

自分の想いに、相手の想いに「応える」ことなのか、と。

 

正しいことを知ることが、

知識を得ることだと考えていた私は、

何だか凄く恥ずかしくなって。

 

社会人になって、早く大人になりたい焦燥感から「正しい」ことをしないとって無意識のうちに思ってしまっていたのかも。

 

かの有名な、リッツカールトンのクレドにもある、この考え方。

実際に、お客様のためなら、

それぞれの従業員に1日2000ドルまでの予算があり、使っていい権限があります。

 

マニュアルには載っていない、

目の前の人に「応える」という最高のおもてなし。

 

一つの事象に対して、

どれだけ沢山の人と出会い、

それぞれの「応え」を持てるのか、

大切なのだと思う。

 

きっとこれは、どれだけ多くの人と出会い、

誠実に付き合えるか、で変わってくるのだろうなと。

 

 社会人になり、早3ヶ月経ちましたが、

1日1日を大切に、噛み締めて、踏み締めて、これでもかってくらい謳歌したいと思います。

 

 とりあえずは、

暑気払いで美味しいお肉がたべたいです。笑

 

では。